<旧東島根町とその周辺>
<2004年制作>
青井から見える夕焼けの富士山(04年2月撮影) 区役所展望台から見た現在の青井(04年10月撮影)
青井 1丁目〜6丁目・・・町名の由来
私が生まれ故郷の千住2丁目から現在の青井6丁目にに引っ越してきた時は、東島根町と呼ばれていました。
足立区では、住居表示法により、昭和39年(1964)7月1日に足立1丁目〜5丁目を皮切りに住居表示「新町丁名」が実施されてきました。これは戦後、日本の経済が大きく発展し、住宅域、工場、商業域は拡大密集し、町名、地番の混乱が生じ、日常生活、経済活動に支障が出てきた為、行政側、経済界、など官民合同で「町名整備」に関して「研究会」「促進協議会」などを設立し議論を重ね、昭和37年正式に「住居表示法」が成立、公布されたことが基になっています。
青井は昭和41年、二ツ家、四ッ家、小右エ門、五兵衛、西加平、東栗原、五反野北、東島根、伊藤谷北の9つの町の一部や全部がいっしょになって青井ができました。この地は江戸時代に新田として開発された地であるため、各町村の境界が複雑で、町名案がまとまりにくく、旧来の町名からは適当でないということになり、昔このあたりが「精出耕地」という字名であったため「」の「」、「」の「」をとって「青井」と決めました。
青は澄み渡った青空と農作物の青々としている様子を、井はつきることのない豊かな湧き水を表し、美しい豊かな土地として、今後の町の発展を願う気持ちをこめてつけられました。
青井(1〜6丁目)となるまでの9町の変遷


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弥五郎新田













五反野北町など5つの町名 江戸時代からの名が「日の出」と「五反野」に

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次郎左衛門新田 四ッ家町 開発時代は四軒であったのに因み
五兵衛新田 五兵衛町 旧村名を引き続き町名に
伊藤谷新田 伊藤谷北町など4つの町名 飛び地が多い為それぞれの方角名を付けた



島根 島根町−>東島根町 旧村名を引き続き町名になりその後誕生
栗原 栗原町−>東栗原町 旧村名を引き続き町名になりその後誕生
小右衛門新田 小右衛門新田 旧村名を引き続き町名に
花畑村加兵衛新田 西加平町 綾瀬川を境に「東」「西」加平に分かれた
渕江村保木間二つ家 二ツ家町 保木間より編入


青井とその周辺のちょっと昔のはなし
かとちゃんの少年時代(東島根編)はここからリンクしています→
 
 現在の青井町と中央本町の堺になっている道は、江戸時代以前より続く古道(道海道=どうけみち)で、千住から四ッ家・保木間・水神橋と続いていた道でした。日光街道の裏街道として使われていたようです。

千住宿の現在の旧道をまっすぐ北に進んだ道でした。現在は荒川放水路の開削でこの部分が無くなっていますが、土手から五反野駅前を通り、四ツ家交差点を抜け環七までは現在も健在ですが、環七以北が区画整理で道の途中ズタズタとなってしまいどこが昔の道なのかわからない状態です。四ッ家交差点から、栗島中学校の間は、昭和20年代では珍しいコンクリート舗装されていた道でした。これは現在の栗島中学や都営中央本町5丁目アパートが建っている一帯が戦時中「
日本航空機材」という軍需工場であったため軍需物資を輸送するための重要な道路となっていたためでしょう。

五反野駅付近は、「弥五郎新田」東隣が「五兵衛新田」北側が「次郎左衛門新田」、「小右衛門新田」「二屋新田」「嘉兵衛新田」となっていました。当時、この付近のメイン道路は、五反野駅から四ッ家交差点を北に進む「道海道」、そして現花畑バス通りは
「下妻(大原)道」と、呼ばれていました。下妻道は花畑を通り、八潮、三郷を経て、千葉県野田、そして茨城県下妻まで通じ、江戸時代の交通、運輸の大動脈であった大切な道でした。自動車が普及するまでの、昭和32〜33年頃までは、遠く「三郷」「八潮」方面より、「千住市場」や「神田市場」「駒込市場」などへ野菜を納めたり、「町場」へ「下肥」を取りに行く「馬車」「牛車」「リヤカー」等で早朝から切れ目無く続き、午後は、各地方へ帰る「車」が列をなして通ったと言う話です。(青木将一さんより聞き取り)

江戸時代もかなり利用されていて、「参勤交代」の秋田・佐竹侯も通行されたと記録に残っているそうです。四ツ家交差点から現在の区立第11中学校前を通り大谷田へ向かう道は、
戦車道と言われ日立亀有工場で製造された戦車が走れるコンクリート道路でした。
 
現;青井2丁目付近
昭和30年代の五反野駅
四ツ家町周辺
五反野駅より四ッ家交差点方向に道海道を歩いていくと、三ツ
家堀と呼ばれた堀が道の左側に流れていました。
そして四ツ家交差点のすぐ手前に大きな木が立っていたのを今でも思い出します。
我が家に帰るときこの木から先は人家のない寂しい道になるので気合いを入れたし駅に行くときはもう少しだという目印にしていました。
古道の面影を残していたこの木は、昭和30年代に三ツ家堀が暗渠化され道幅が広げられ車の通る道になったときに道の真ん中になってしまうため切り倒されてしまいました。
最近まで、この木は松だと思っていましたが、写真を見て榎だとわかりました。

昭和20年代の三ツ家堀と大榎(五反野駅から四ツ家交差点方向)
 
 正月に餅を食べないところは各地にあるそうですが、四ッ家(現青井二丁目付近)では雑煮を正月に食べると火事になると言われ、現在も旧家で守り続けている習慣があります。
この習慣は先祖がこの地にたどり着いたのが年末年始に当たったため餅の準備が出来なかったので、その先祖の苦労を忘れない為、という考え方が戒めとして伝わってきたといわれています。
四ツ家はまた土地の名前が良く変わったところでもあり、現在は「足立区青井」ですが、その前が「足立区四ッ家」「南足立郡綾瀬村次郎左衛門新田」「武州下足立・次郎左衛門新田」「さいかち新田」と行政の移り代わるたびに呼び名も変わりました。
そして、下妻道は水争いの多発地帯でもあり、上郷(小右衛門新田など)と下郷(次郎左衛門新田など)が争ったことが鶴飼家文書
足立区文化財に書かれています。
現在では水争いの基になった堀も暗渠化してどこに堀があったのかと思ってしまいますが四ツ家の交差点五差路のうち堀が道に沿ってなかったのは道海道だけだったような気もします。(あとの4つの道に堀があったのはしっかり記憶しています。
道海道に関しては今の中央住区センターから道海道に出て四ツ家交差点まで堀があったような記憶もありますのでいずれ調べてはっきりさせたいと思います。
いずれにせよ、昔の青井にはいたるところに水路があったのは事実で水争いも頻繁に起こったことは想像できます。
 
 四ツ家稲荷神社
 2丁目15番にある。祭神は宇迦能御霊命。例祭は9月15日。
四ツ家は、鶴飼・市川・両高橋の4家を「草分四ツ家」といい、それが地名になったということらしい。
 安龍山正法院増福寺は、2丁目32番にある新義真言宗のお寺で本尊は阿弥陀如来、宝物に不動明王があり、空也上人の作と言われています。
元和元年(1615)慶龍法印の開山で山門を入ると右に庫裏、左手と本堂の奥は墓地になっています。
荒川綾瀬88ヶ所霊場の49番札所の石碑が山門の手前にあります。
昭和30年代の東島根町(現:青井6丁目)の記憶

我が家に続く道は昔からの古道

家の前の道でなわとび
右奥の建物は栗島小学校

縄跳びしていた位置から撮影
栗島小学校、花井文房具店、山崎牛乳店
材木屋、手前はキャベツ畑

上と右の2枚のカラー写真は昭和38〜39年に
撮った栗島小学校及びその近所の住宅の写真
です。私自身が撮ったものですが、生まれて初
めてのカラー写真の中のです。当時は、カラー
写真そのものが貴重で1枚あたりモノクロ写真
の7〜8倍の値段がかかったように思います。
昭和40年2月雪の日の道海道(どうけみち)
写真奥が四ツ家方面。道路右側の建物は、
現在栗島中学校が建っている所にあった
都営住宅。
木造平屋建てと平屋の長屋風モルタル作り
2種類の住宅があった。
6丁目20番にあった庚申塔。
現在は、6丁目18番に移設。
寛政五年(1793)日月・青面金剛・
一鬼・二鶏・三猿を刻む駒型。
 
 昭和30年代の東島根町はこれが東京かと思うほど緑豊かな農村地帯でした。詳しくは「かとちゃんの少年時代(東島根編)」を読んで頂ければわかると思います。
人家より田畑の方がはるかに多くいたるところに池がありました。
我が家の家の前にも池はありましたし裏にもありました。今、スシローの駐車場になっているところは、池でしたし下の写真東島根町歩道橋の斜め前にある東洋機工の隣あたりにも池がありました。
この池ではイカダ遊びをした思い出があります。
青井高校のあたりにもナンセンの池と呼ばれた池があり、池の底から湧きあがる湧水が見られました。
昭和20年代はもくもくわき上がるほどの水量があったそうです。
池から清流が用水路に繋がっており、釣りが楽しめました。
下妻道(現花畑バス通り)沿いには、染め物屋さんがあり染めた生地を干していましたがもしかしてこの湧き水を使っていたのかもしれません。
(私の記憶にある染物屋さんですが、昔の人に聞いても誰も知らないと言われています。)
この池の私の一番の記憶は、大きなアオダイショウがいて怖くてなかなか近づけなかったことです。

今は環七の歩道橋に東島根町と信号機に東栗原町の消えた地名が残っている
愛宕神社(現:青井1丁目付近)の はなし
 
 二ツ家は織田家の旧臣・平田家と若菜家の二軒の祖先が元和年間(1615〜1623年)に移住し開発を進めたので、その二つの家から二屋(ふたつや)と名前がついたと言われています。足立区では唯一の愛宕神社は、武家の崇敬が篤い勝軍地蔵が祀られています。
現在は1丁目16番にあります。神体は馬に乗った愛宕権現で、安産の神・火の用心の神として信仰を集め、9月21日の彼岸の中日が祭日となっています。
社前に宝永三年(1706)の供養塔、寛政十二年(1800)の庚申塔があります。
はじめは、平田家の東に鎮座し平田家の屋敷神となっていましたが、熱心に信仰する人が増え、参拝し易いようにと屋敷の表へ移し、江戸時代末期から明治の初めのころ下妻道に面した場所に移し、若菜家の敷地(現青井6丁目8番)、村持ちになり地区の神社となり、たさらに昭和35年(1960年)に現時の位置に移されました。
新地番制に伴い、青井5町会の区域を氏子に加え平成15年(2003年)には、老朽化した社殿を建て直しきれいになりました。

愛宕神社
ほむすびのみこと(防火)、みづはめのみこと
(水神・安産)、やまとたけるのみこと(武・戦
の神)三柱の神様を祀る。御神体には「勝軍
地蔵尊像」を安置している。

御岳・三笠山・八海山の三山碑
一心講による建立。裏面に安政5年須賀氏と
書かれている。愛宕神社は、平田家の屋敷神
であったのに「須賀氏」となっているのでもとも
とは、どこかに建っていたものではないか。

神社境内にある石像 1
獅子に乗って経巻のようなものを両手で大
事そうに持ち支えている。

神社境内にある石像 2
表面が削り取られていてもともとどんな石像
だった全く不明。
 
 青井ふれあい公園は、
1丁目3番にある区立公園。
公園中央に円形の広場があり、階段状のステージ、ベンチが周囲に配されている。
樹木の多い公園で遊具は、大きな岩を使った複合遊具やアスレチック的なものがある。
 
 青井高等学校は、1丁目7番にある都立校です。
校庭側から見ると、2010年現在まだ畑が残っていてのどかな田園風景です。
二ツ家(現:青井4〜5丁目の一部)
昔の下妻道二ツ家(現花畑バス通り
青井5丁目1番)に石造物が三体並
んで建っています。その中の一番左
のものが百躰庚申塔というものです。
信仰上は、造塔することで功徳を得
られると考えられていて、大きいもの
や、より多く造塔する風潮がありまし
た。ここには、
青面金剛百体の尊名
が刻まれ多くの功徳を願ったものと
思われますがたいへんめずらしいも
のです。
庚申塔は、江戸時代の人々が疫病退
散や魔よけ、神仏信仰などのために
建てたもので、道しるべの役割を兼ね
たものも多くあります。真ん中の石造
物がいわゆる庚申塔です。
側面には「猿田彦」「庚申」「青面金剛」
と碑の左右両面にその名が刻まれ、
合計百体造塔したと同じ供養を受ける
ことができるのだそうです。
江戸時代に花柳界の綺麗どころ
から篤く信仰されたいたのが花畑
の不動院にある「矢納弁天」です。
そこへ案内するための道しるべが、
一番右の石造で蛇が刻まれていま
す。よく見ると案内する方角と行先
が削られているのに気づきます。
建立当時は別の場所に立っていた
と思われますが、この道標から江戸
時代、千住宿方向から「矢納弁天」
への参詣者がこの道標を目印に訪
れ賑わった様子が感じられます。
*現在は足立郷土博物館の敷地内に移設されています。上の3枚の写真は’04年、現地で撮影。
二ツ家箕濃が谷囃子
江戸時代の文化文政期ころ(約200年位前)二ツ家の愛宕神社
のお囃子として生まれ、口伝により今日まで伝えられてきた祭囃
子です。足立には箕濃が谷囃子があちらこちらの地区に伝えら
れていましたが、だんだん葛西囃子や神田囃子がとってかわり、
現在では二ツ家箕濃が谷囃子と保木間箕濃が谷囃子残っていま
すが二ツ家箕濃が谷囃子の方が伝統の型を残していると言われ
ています。御輿に良く合うという評判もあり一時より保存会の演奏
も盛んになっています。

<江戸祭囃子の系統>
葛西囃子系統(江戸川区・足立区に残る)
葛西囃子・葛西流・葛西系箕輪囃子
箕濃が谷囃子・葛西流切り囃子など
神田囃子系統( 千代田区・中央区・足立区・板橋区などに残る)
神田囃子(神田流)・佃囃子・神田下町囃子・山の手囃子など
小右衛門新田(こえもんしんでん)
元和2年(1616年)に岩槻城に出仕していた
武士・渡辺小右衛門とその中間が拓いた村
小右衛門新田です。現在は島根、梅島、
中央本町にまたがっています。小右衛門稲
荷神社縁起によると渡辺小右衛門が移住し
てきた様子が残されています。小右衛門町
の名前の由来は渡辺小右衛門の名前が、
地名になったことは説明の必要はないで
しょう。
現在はバス停に昔の地名を残して
いるくらいです。

小右衛門稲荷神社
今も庚申塔が残っている
環七の一本内側に綾瀬川から栗島
小学校の前を通り西新井まで通って
いる道があります。昔は綾瀬川に橋
がかかり亀有まで通じていましたが
環七の開通で橋は廃止になり綾瀬
川から先の道は環七とだぶりなくな
ってしまいました。この道は環七が
開通するまではとても重要な道路で
昭和になってこの道沿いには多くの
工場や商店が進出しバス通りにもな
っていました。(花畑車庫、旧道回り
北千住行き)このHPわが町青井管
内のバス停は、栗島小学校前、農
機公団、小右衛門町がありました。
この道は、旧府県道202号王子新
宿線といいます。(旧府県道202号
は小右衛門町から道海道を通って
四ツ家、大谷田へと抜けていました)
小右衛門町のバス停のそば増茂酒
店のとなり(現中央本町5−1)に上
の写真の庚申塔が残っています。そ
のほかお地蔵様や馬頭観音など古
い石造もいくつか見られます。
4号線から北東方向を
撮影。
現在足立区役所が建っ
ているあたりに足立
体育館があった。(写真
中央の建物)体育館の
周りは空き地や湿地帯
が広がっていた。このあ
たりまでが小右衛門町
だった。
巾が13間あったことから
十三間道路と呼ばれた4
4号線、日光街道。千住
新橋から水神橋の間、戦
後しばらく、道路の中央が
無舗装だったので都電が
千住四丁目から延伸され
るといわれていた。
当時
は広い道だと驚いた。写
真は昭和30年代の小右
衛門町
付近の様子。

昭和30年代の梅島陸橋

小右衛門町から弥生町、千住新橋方向
に進むと、東武鉄道との立体交差にな
る陸橋があった。
踏切と道路は平面交差がふつうの時代
に立体交差となっていた「梅島陸橋」は
東京名所のひとつにも上がっていたほど。
その後、東武鉄道が高架になり、現在の
「梅島陸橋」とは(環七と国道四号線)
位置も性格も違う。
写真は梅島陸橋下を通る東武線。
嘉兵衛新田(現:青井4〜5丁目の一部)
慶長〜元和年間(1596〜1623)に伊藤嘉兵衛の
先祖が、武蔵国稲毛領(現・川崎市付近)から移
住して来て開発を進めたところから「嘉兵衛」が
地名になった。現在は「加平」と平易な文字を用
いている。
右の写真は常磐新線(つくばエクスプ
レス)の建設に伴い道路となり移転されてしまっ
た長屋門。下は今は無くなった加平橋。

*上の2枚の写真は、昭和30年代に撮ったものです。浅野家長屋門は5丁目11番(青井5丁目住宅のあるところ)に
増野製作所があり、そこに長屋門がありました。1重2階建て、入母屋造りで桟瓦葺き、両袖に曲り屋の平屋建て長屋
各1戸が附いていました。元は綾瀬川の東岸上谷中村の名主浅野邸にあったものを、昭和14年に移築されたもの。
現在、長屋門は足立区の有形民俗文化財に指定され、常磐新線の敷設に伴う道路工事のため、さらに都市農業公園
へ移築され、展示されています。
上のモノクロ写真に加平橋の左に屋根だけ写っている建物は2010年5月現在も健在です。左の写真はモノクロ写真が
撮ったのとできるだけ同じ位置から撮ったもの。右は、建物のアップ。ちなみにこの建物は当時駐在所でした。
五兵衛新田(現:青井3丁目の一部)
金子五兵衛氏が、慶長2年(1597)に武州入間
郡金子村からこの地に来て開発した。綾瀬川
が、まだ今のように内匠橋から南下する前で、
開発の後に開削された為に、川の東側と西側
に村は二分された。金子五兵衛の「五兵衛」が
村名になった。
写真左は、綾瀬新橋。下はベニ
ア工場に綾瀬川を運ぶ木のイカダ
TX(つくばエクスプレス)の青井駅(3丁目24番)は、
地下駅です。平成17年8月24日TXの開業と同時に
設けられた駅。各駅停車しか停まらないため隣の六
町駅とともに23区内で一番利用できる列車本数が少
ない駅になっています。ホームは相対式2面2線構造
で地下2階にあり、 改札口は1ヶ所のみで地下1階に
あります。出口はA1・A2の2ヶ所ある。地上出口から
建設中のスカイツリーが見えます。(2010年5月現在) 
青和憩いの森公園は、4丁目25番にある都営青井四丁
目アパート4号棟西側のスペースにある区立公園です。
青井みどり公園は、4丁目37番にあり竜井堀親水水路に
囲まれた小さな公園です。
青井ばら公園は、3丁目18番にあり都営青井三丁目
第三アパート内にコミュニティーロードとして、となりの
青和コミュニティ公園を結んで散策するのに最適なな
場所となっています。
青和コミュニティ公園は3丁目23番にあります。
木が生い茂った遊具があるコーナーと広場とに分かれて
います。

ふるさと足立区へ

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